ダイジェスト
| 1947年・0歳 | 6月9日 京都市下京区五条松原にて在日韓国人二世として誕生。 2つ上に姉、2つと5つ下に妹2人の4人兄弟。 | ★ |
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| 1952年・5歳 | 幼稚園入園。机の上を走り回り、怪我の絶えないやんちゃな子。途中で幼稚園がつまらなくなり退園 | |
| 1954年・7歳 | 小学校入学。1~2年の担任にいじめられる | |
| 1956年・9歳 | 誰に言われたわけでもないが、自ら家の周囲を履き、夏は打ち水をし、家族の朝食準備をし始める | |
| 1957年・10歳 | 野球、柔道、鉄アレイ・バーベルでの筋トレを開始。以降、筋トレは現在も健在。 | |
| 1959年・11歳 | 金閣寺そばの新居に引っ越しにより転校。(小学6年) | |
| 家業は京都で一番大きな牛乳の卸問屋。毎朝、牛乳配達を始める。 | ||
| 1960年・12歳 | 叔父が密航で捕まり、新聞に掲載。これをきっかけに同級生・担任からいじめられるようになる | |
| 琵琶湖で入水自殺を図るも生還 | ||
| 韓国中学入学 | ||
| 自らホームルーム委員長になり、クラスでホームルームを開く。 | ||
| 1961年・13歳 | クラスメイト一人ひとりに状況や心情について話を聴いて、自ら相談に乗るようになる。 | |
| クラスメイトの有志を集めて奈良若草山へハイキング。 | ||
| 1961年(14歳) | 学校の倉庫で、戦時中日本の韓国人に対する残虐な行為の写真・資料を偶然に見つける。祖国意識が一気に高まる。 | |
| 1962年(15歳) | 高校3年に進級したとたん、受験勉強一辺倒になった教師、クラスメイトに抵抗を感じる。「騙されるな。もっと今やることがある」と訴えるが、誰からも相手にされなかった。 | |
| 1963年(15歳) | 学校教育への抵抗を感じながらも、親の顔を立てて高校受験するも失敗。2次募集で不本意な高校に入学。 | |
| 1963年(16歳) | 高校で創氏改名を強制され抵抗。盲腸の手術で休んだのをきっかけに、学校に行かなくなる。 | |
| 東京へ上京(ケネディ大統領暗殺の翌日) | ||
| 東村山市の叔父の家に居候して受験勉強。 | ★ | |
| 1964年(16歳) | フットボールがしたくて、日大付属高校を受験するが国籍差別で1次、2次試験とも面接が実施されず不合格。 裏口入学のブローカーを紹介され、親に内緒で中学時代の友人から20万円を借りて払うが、だまされる。 | |
| 明大中野高校の定時制に合格。朝は牛乳配達、昼間は土方、夜学校へという生活。 | ★ | |
| 1964年(17歳) | 叔父の家を出て、東京中野の下宿で一人暮らしを始める。 | |
| 1965年(17歳) | 2年次、全日制に編入。最初はガリ勉のグループに入り、真面目に勉強するが意味をもてなくなる。 | |
| 韓国青年同盟のデモに参加するようになる。 | ★ | |
| 1965年(18歳) | 中学時代の友人(ビョンチョリ)が密入航でつかまり、強制送還される。京都駅で韓国中学の友人達と一緒に愛国歌と校歌で見送る。 | ★ |
| 1966年(18歳) | 学校の試験で、答案用紙に回答を書かず、裏に人生問題について長い文章を書く。2人の先生が満点をくれた。教室や職員室で正座を始め、問題意識を暗に表現する。 | ★ |
| 定時制4年に編入。反対する担任に「学校で学ぶものはない。社会を学校にして学びたい」と訴え、飛び級で編入を認められる。 | ||
| 1966年(19歳) | 上野でホンダスクランブルCL250のバイクを買い、東北一周の旅に出る。事故を起こしたり、見知らぬ人の家に泊めてもらったりと、思わぬ経験をする | ★ |
| 三鷹のメキシコ料理のレストランで深夜のボーイを始める。朝牛乳配達、昼間土方、夜学校、夜中ボーイという生活を送る。 | ★ | |
| 1967年(19歳) | 高校卒業後、「30歳までに100の地域で100の仕事をやる!」をスタートする。 | |
| 1967年(20歳) | バイクで北海道に渡る。 | ★ |
| 札幌、旭川、稚内、北見でいろいろな人に出会い、思いもよらない親切にあう。本のセールス、パチンコ店、パルプ工場、土方、はつり等さまざまな仕事を経験する。 | ★ | |
| 1968年(20歳) | 東京に戻り、露天商を始める。 | |
| 見聞を広げるため、広島、九州を回る。 | ||
| 再び北海道に渡り、引っ越しや瓶の回収業、酒屋の丁稚、とび職を行なう。 | ||
| 1969年(21歳) | 北海道自動車学校で、大型2種、大型特殊、大型牽引免許取得。 | |
| 名古屋のパチンコ店、川崎のパチンコ店で働く。その後再び北海道へ。 | ||
| 1969年(22歳) | 札幌中之島の自動車整備学校に入学。同級生3人と一緒に住むためアパートを引っ越す。タクシーの仕事をして皆の生活費を稼ぐ。 | |
| 1970年(22歳) | 運送会社数社に所属し、長距離トラック運転手をやる。その後、トレーラーに乗るため水産物輸送会社に入社。 | ★ |
| 1970年(23歳) | トレーラの運搬で、大卒の初任給の3倍以上の収入を稼ぐ。 | ★ |
| 1971年(24歳) | 交通事故を起こし、免停になったことをきっかけに、トレーラーを降りることにする。 | |
| 1972年(25歳) | 知り合いの紹介でトレーラー運転手の仕事に再び就くが、給料を支払ってもらえず、労働基準局に訴える。 | |
| 1973年(25歳) | 東京四谷の輸入品販売会社から入社を誘われるが断り、一緒に誘われた人のカバン持ちとなり、嘱託社員(有期雇用契約)として会社の輸入品の販売を始める。 | |
| 1973年(26歳) | 東京の建築会社に就職し、現場監督をやり、さらに営業も担当する。 | |
| 1974年(26歳) | 知的障がいの姪を良くするために鍼灸学校に入ろうと、学費を稼ぐため、昼はトラック、トレーラーの運転、夜は生コンの仕事をする。 | |
| 鍼灸学校入学 | ★ | |
| 1974年(27歳) | 中野に下宿し、中野の韓国人の老人の家を周り、医療奉仕で鍼灸とマッサージを始める。 | |
| 1975年(27歳) | 治療家を対象にリンパマッサージのセミナーを開催。 | |
| 1975年(28歳) | お茶の水クリニック物療科に入所。 | ★ |
| 1975年(28歳) | アルバイトで観光バスの運転手をやる。クリニックの患者さん達を、バスを借りて旅行に連れて行く。 | ★ |
| 1976年(29歳) | 自分を追い込むために遺書を書き、20㎏のリュックを担いで塩尻から岐阜までの雪道を2日1晩歩き通す。 | ★ |
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| 1977年(29歳) | 鍼灸学校卒業 塩川カイロプラクテックスクール1期生として学ぶ。人相学を学ぶ。 | |
| 1977年(30歳) | 治療家に対し、カイロプラクテックの指導をスタートする。 | |
| 1978年(30歳) | 自分への挑戦。郡山から何処までどのくらいの時間で歩けるか。会津若松駅までノンストップで歩き通す。 | |
| 1978年(31歳) | 「姪は病気ではない、彼女に必要なのは治療ではなく安心して生きていける空間(コミュニティ)を創ること」だと気づく。 | |
| 1979年(31歳) | 塩川スクールの同期生がアメリカでアプライド・キネシオロジーを学び、紹介セミナーを開催。「筋肉がその人の情報を教えてくれる」ということに着目、独自の検査法「筋肉反射検査法(後の読脳法)」を開発するきっかけを得る。 | |
| 1979年(32歳) | 東京で医療者対象のセミナーをスタート | |
| 1981年(33歳) | 治療器具の開発のために金融公庫で1200万円借金し、数カ月で使い果たす。 | |
| 1981年(34歳) | 事務所を渋谷松濤に移転、医師・歯科医師・治療家対象セミナーをスタートする。 | |
| 1982年(35歳) | 月間「人物」で細川隆一郎氏と対談。 | |
| 1984年(36歳) | 「臨床キネシオロジー学会」設立。 | |
| 1985年(37歳) | CK学会(後のCKカインド)設立。医療者以外の一般を対象にあらゆる分野での講演、セミナー開催をスタートする。 | |
| 「親と子の会」スタート。 | ★ | |
| 1985年(38歳) | 目黒区学芸大学に本部を移転。自分らしく納得できる人生を求める「空間塾生」達と共同生活を送る。 | ★ |
| 1986年(38歳) | 健康管理技術養成学院(後のCK学院スクール)開校。 | |
| 1987年(40歳) | 呼吸法で自分を追い込み、『元』との一体を体験。 | |
| 1988年(40歳) | 駒沢大学駅伝部にメンタルトレーナーとして召喚され、指導を行う。 | ★ |
| 日本テレビ「木曜スペシャル」「気の世界大会」出演。 | ★ | |
| 1988年(41歳) | 健康情報誌「FIND」刊行 | |
| 1989年(41歳) | 長崎の老人ホームでボランティア開始。老人の生き方、考え方を実践的に学ぶ。 | |
| 1989年(42歳) | 日本テレビ「たけしのスーパージョッキー」出演。 | ★ |
| 1992年(44歳) | 40歳で『元』との一体を果たし、「自分の存在する意味を掴んだ。後は死ぬだけ」と考えるようになり、死に場所を求めて大分県の国東半島に引っ越す。 | |
| 1992年(45歳) | 大分で「第2の人生が始まっている」と気づく。生き急いだ第1の人生でやれなかったことをやろうと考え、ログビルダー、カヌー作り、パラグライダー等を行なう。 | ★ |
| 1993年(46歳) | 「親と子の会」に参加していたNさんの「私は女の幸せを持っていない。私の女の幸せに協力して欲しい」という懇願に応え、自分のことが終わり、次は他人のために生きるという人生が始まる。 | |
| 1994年(47歳) | 「親と子の会」に参加していたお母さん数人が集まり、女の自立のための実践の場としてサロン「ファインドレイ」を開く。彼女達への協力として「女の幸せ」合宿や個人合宿をスタート。 | |
| 1997年(50歳) | 東京に戻り、LHCスクールを開校のため、赤坂のビルに入居。スクール開校の直前、不動産屋に騙され、転売物件だったことが発覚。追い出しに合い、抗議するとやくざに脅かされる。強制執行当日まで抵抗するが、直前で移転する。 | ★ |
| 1998年(51歳) | 港区芝大門に移転し、LHCスクールを開校。治療院も併設予定だったが、大家の妨害に合い、やくざに脅され、警察でも「殺されるよ」と注意を受け、移転を余儀なくされ移転。 | |
| 1999年(52歳) | 六本木で研究所兼治療院「医美」を開設。『重力バランス軸』『支持骨』『生命エネルギー』『重心の浮き・沈み』等のCWメソッドの研究開発をスタート。 | ★ |
| 2002年(55歳) | 「伊東聖鎬HP」「ヒューマンエネルギー研究所」「CWコミュニティ構想」のWebサイトを公開し、「人の役に立つ」ための活動準備を始める。 | |
| 2003年(56歳) | さまざまなテーマで悩んでいる人へ情報を発信しようとメールマガジン(66種類)の配信を始める。 | |
| 2003年(56歳) | 真美(妻、当時30歳)がインターネットで「医美」を知り、治療に訪れる。 | ★ |
| 2004年(56歳) | 真美は「伊東聖鎬HP」「コミュニティ構想」に共感し、2回目の来院時に弟子入りを申し出る。勤務していた㈱ソニーを退社し、活動を共にするようになる。 | |
| 2005年(57歳) | 読脳ストーンの研究をスタート。研究会を立ち上げる。 | |
| 2006年(59歳) | インプラントの手術で医療過誤に遭う。 | |
| 2007年(60歳) | 受講者の歯科医師達に協力の元、インプラント事故を訴訟する。最終的に相手が非を認め、示談になる。 | |
| 2008年(61歳) | 浮き・沈みサポート(シール、ロケット)の開発をスタート。 | |
| 2009年(61歳) | 歯科医師対象の保険診療脱退プロジェクト「フリーマン」発足。 | |
| 2010年(63歳) | 40年間活動に協力してきたスタッフNさんが認知症になり、スタッフと共に介護を行う。 | |
| 2011年(63歳) | 東日本大震災でフリーマンプロジェクトに参加していた気仙沼の歯科医師が亡くなる。 | |
| 2011年(64歳) | 山梨県河口湖町へ移転。コミュニティ創造の準備のスタートを切る。 | |
| 2012年(65歳) | 自分研究ワークショップをスタート。全国各地を巡り開催。 | |
| 2013年(65歳) | 医療難民をなくすネットワークグループを歯科医師と共に設立。 「歯原性口腔疾患」に対する取り組みとして、全国の柔整・治療家へ広報。 | |
| 2015年(68歳) | 読脳をさまざまな業種で生かす「スペシャルセラピー」を研究、広報を行う | |
| 2016年(69歳) | 海外セミナースタート。ブラジル・サンパウロにて医療者・大学教授等250名が参加する | ★ |
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| 2017年(69歳) | 幕張メッセのイベント総合EXPO地方創生ゾーンで「読脳アテンダント」出展。 | ★ |
| 2017年(70歳) | 読脳アカデミー・CWインターナショナルスクール開校 | ★ |
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| 2018年(71歳) | アロマ&ハーブEXPOで「読脳ハーブセラピー」出展 | ★ |
| 2020年(72歳) | 新型コロナウィルスのソーシャルディスタンスにより3か月間スクール休校。4月、オンライン受講をスタート | ★ |
| 2020年(73歳) | 老若男女のさまざまなテーマで「読脳」を指導する企画・準備をスタート | |
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| 2025年(78歳) | 読脳フリースクール開校 |