伊東聖鎬の歩み

ダイジェスト

1947年・0歳
6月9日 京都市下京区五条松原にて在日韓国人二世として誕生。
2つ上に姉、2つと5つ下に妹2人の4人兄弟。
1952年・5歳幼稚園入園。机の上を走り回り、怪我の絶えないやんちゃな子。途中で幼稚園がつまらなくなり退園
1954年・7歳小学校入学。1~2年の担任にいじめられる
1956年・9歳誰に言われたわけでもないが、自ら家の周囲を履き、夏は打ち水をし、家族の朝食準備をし始める
1957年・10歳野球、柔道、バーベルでの筋トレを開始。以降、筋トレは現在も健在。
1959年・11歳金閣寺そばの新居に引っ越しにより転校
家業 牛乳の卸問屋の手伝い(毎朝の配達や集金)を父親に連れられ行う。
1960年・12歳叔父が密航で捕まり、新聞に掲載。これをきっかけに同級生・担任からいじめられるようになる
転校前の仲間とチームを組んでの、転校先の同級生との野球対決で勝利。転校前の仲間と一緒に「なんで伊東をいじめるんだ!」とバットを振り回し、暴れる。翌日、担任に呼び出され、以降いじめが深刻さを増す。  
体育の授業(サッカー)で転倒。複数のクラスメイトが上から覆いかぶさり、右脚骨折
課外授業の京都御所見学時、クラスメイトからブランコの座台で顔を殴られ、歯を2本破折
いじめを苦に琵琶湖で入水自殺を図るも、生還。これをきっかけになぜ自分が生まれてきたかの探究の人生が始まる
韓国中学へ入学
自らホームルームを開き、国籍差別のいじめに遭った話しをし、問題提起する。校長や先生達も話に聴き入る 
運動神経抜群で陸上、体操部を自ら仲間を募って発足させる
1961年・13歳クラスメイト一人ひとりに状況や心情について話を聴いて、自ら相談に乗るようになる                            
いじめた相手全員の家へ行き、仕返しをして回る。相手の親に事情を話すと「うちの子の方が悪い」と言ってくれた
初恋。丸顔でかわいいトマトというあだ名のクラスメイトを好きになる

ハイキングを計画し、クラスメイト20名ほどを連れて奈良県の若草山へ。
1961年(14歳)学校の倉庫で、戦時中日本の韓国人に対する残虐な行為の写真・資料を偶然に見つける。祖国意識が一気に高まる
母親が家で始めた喫茶店を手伝う。客は同志社大学の学生が多く、人生について議論を持ちかけるが「そんな難しいことは考えたことがない」と言われる。麻雀と女と遊びの話しかしない大学生を見て、大学に行く意味はないと感じる
1962年(15歳)高校3年に進級したとたん、受験勉強一辺倒になった教師、クラスメイトに抵抗を感じる。「騙されるな。もっと今やることがある」と訴えるが、誰からも相手にされなかった
担任教師が学校の傍らで塾を開き、生徒におべっかを使って金儲けをしていることを知り、憤慨する
1963年(15歳)学校教育への抵抗を感じながらも、親の顔を立てて高校受験するも失敗。2次募集で不本意な高校に入学
京都下鴨神社近くの韓国民団京都支部に韓国語を学びに行き、誘われてデモに参加。上京後も帰省した際に顔を出すようになる
1963年(16歳)高校で創氏改名を強制され抵抗。盲腸の手術で休んだのをきっかけに、学校に行かなくなる
家を出て自立したいと両親へ訴える。両親は認めてくれなかったので、包丁を振り上げ「指を切り落とすぞ」と脅して許してもらう
ケネディ大統領暗殺の翌日、ダンベルとシャフト(鉄棒)を持って、東京へ上京。                     埼玉県志木の叔父の家に居候し、不本意な受験勉強を再びやるはめになる。
1964年(16歳)フットボールがしたくて、日大付属高校を受験するが国籍差別で1次、2次試験とも面接が実施されず不合格。                          
裏口入学のブローカーを紹介され、親に内緒で中学時代の友人から20万円を借りて払うが、だまされる
明大中野高校の定時制を受験し合格。全日制に編入できると、再びブローカーに20万円をだまし取られる
朝は牛乳配達、昼は土方、夜は学校という生活を送る 
1964年(17歳)叔父の家を出て、東京中野の下宿で一人暮らしを始める
中学時代の友人(へンム)を「自立しろ」と家出させ、一緒に住むようになる。下宿のおばさんが友人を嫌い、追い出すように言われたので、引っ越す
外国人登録証明書を携帯していなかったヘンムが警察に捕まる。証明書を届けに警察に行った自分もその時、携帯していなくて、取り調べを受ける
1965年(17歳)2年次、全日制に編入。最初はガリ勉のグループに入り、真面目に勉強する
1965年(18歳)中学時代の友人(ビョンチョリ)が密入航でつかまる
下宿の隣の女性の部屋にやくざが何人もやってきて、怖くて下宿を引っ越す
ガリ勉のグループから抜け、悪ガキのグループと付き合うようになる
学校を休んで映画をしょっちゅう見に行く。日活ポルノは人生勉強と考え、メモをしながら観ていた
知り合いから在日韓国青年同盟に誘われ、軍事政権反対デモに参加
韓国に強制送還される友人(ビョンチョリ)を京都駅で見送る。同級生を招集し、集った全員で、駅のプラットホームで校歌讃頌
1966年(18歳)学校の試験で、答案用紙に回答を書かず、裏に人生問題について長い文章を書く。2人の先生が満点をくれた。教室や職員室で正座を始め、問題意識を暗に表現する
家族が上京し、衣料品店を開くことになり、一緒に暮らすようになる
全日制のクラスにいることに意味を持てず、夜間に戻ることにしたが、反対する親と揉め、母親が大事にしていたタンスをつぶす  
全日制から定時制に戻る。親身になってくれていた担任に「お前はどれだけ苦労して全日制に入ったのか忘れたのか」と殴られるも、「自分が学びたいものは学校にない。社会を学校にして学びたい」と訴える。担任は認めてくれて、定時制4年に飛び級させてくれた
1966年(19歳)上野でホンダスクランブルCL250のバイクを買い、東北一周の旅に出る。事故を起こしたり、見知らぬ人の家に泊めてもらったりと、思わぬ経験をする
父親のバンを借りて改装し、府中の競馬場でホットドック屋を始める
三鷹のレストランで、学校が終わって夜中3時まで働き、朝は牛乳配達、昼間はとび職、寝るのは学校の授業中という生活を送る
肉体の限界に挑む。
「寝ない」に挑戦し、13日目に倒れる。2日間寝て翌日再び挑戦、やはり13日目で倒れる。     
「食べない」にも挑戦し、17日間で限界だった
卒業後、海外に出ようと、オーストラリア、カナダ大使館に相談に行くが、政治運動をやっていたためパスポートの取得が難しいと断念
1967年(19歳)レストランを辞め、2トントラックの運転手、土方・とび職を始める
高校卒業
「30歳までに100の地域で100の仕事をやる!」を目標に、人生修行の旅をスタートする。
京都のパチンコ店で釘師の見習いをする
1967年(20歳)バイクで北海道に渡る。本のセールス、パチンコ店、パルプ工場、はつりの仕事をする
東京に戻り、服やカーテンの布地、バッタ物を仕入れて売る露天商、布団の訪問販売、とび職、4トントラックの運転手をやる
1968年(20歳)見聞を広げるため、広島、九州を回る。
再び北海道に渡り、札幌の自動車学校で、大型2種、大型特殊、大型牽引免許取得
北海道で、引っ越し屋、瓶の回収業、建築会社のトラック運転手、とび職、酒屋の丁稚をやる
1969年(21歳)名古屋のパチンコ店に勤める
川崎のパチンコ店に勤めるも、夜逃げする
自動車の整備技術を学ぼうと考え、北海道で自動車整備学校に入学
1969年(22歳)自動車学校の同級生3人と一緒に住むため、アパートを引っ越す。タクシーの仕事をして皆の生活費を稼ぐ
東京に戻り、露天商をやる。団地に商店街ができて、売れなくなったので、スーパーの貸しスペースに出店する
1970年(22歳)運送会社数社に所属し、長距離トラック運転手をやる。その後、トレーラーに乗るため水産物輸送会社に入社
1970年(23歳)トレーラの運搬で、大卒の初任給の3倍以上の収入を稼ぐ
1971年(24歳)交通事故を起こし、免停になったことをきっかけに、トレーラーを降りることにする
1972年(25歳)知り合いの紹介でトレーラー運転手の仕事に再び就くが、給料を支払ってもらえず、労働基準局に訴える
東京に戻り、実家の洋装店の手伝い、露天商、タクシー運転手をしながら、宅地建物取引主任試験の勉強を始める
宅地建物取引主任試験合格
1973年(25歳)東京四谷の輸入品販売会社から入社を誘われるが断り、一緒に誘われた人のカバン持ちとなり、嘱託社員(有期雇用契約)として会社の輸入品の販売を始める
熊本や福岡のデパートでアクセサリー、南米インカの商品販売をする
設計技師になろうと東京デザイナー学院に入るが、学費稼ぎのためのタクシーの仕事が忙しく、ほとんど授業へ通えずに断念する
1973年(26歳)東京の建築会社に就職し、現場監督をやり、さらに営業も担当する
インテリア屋を始める。カーテンやカーペットを団地で予約受注し、販売。順調に売れていたが、オイルショックの煽りをうける
エジプト考古学者 吉村作治氏に協力してもらい、エジプトの品を展示し、「世界珍品一品秘境市(物産展)」を京王デパートで企画
北陸海洋博に出展し、タイの民芸品やアラパカの敷物を企画・販売
世田谷ぼろ市で、漬物を販売。かなり売り上げる。年末、団地でおせちの販売企画をするも、車が事故を起こして失敗し、借金を抱える
1974年(26歳)知的障がいの姪を良くするために鍼灸学校に入ろうと、学費を稼ぐため、昼はトラック、トレーラーの運転、夜は生コンの仕事をする        

鍼灸学校入学。医療の道に入る
1974年(27歳)中野に下宿し、中野の韓国人の老人の家を周り、医療奉仕で鍼灸とマッサージを始める
経済的に厳しくなり、鍼灸学校の夜間部に編入し、昼間は働く
リンパマッサージの創始者、紺野義雄氏の筋肉医学研究所入所
1975年(27歳)治療家を対象にリンパマッサージのセミナーを開催
1975年(28歳)お茶の水クリニック物療科に入所
1975年(28歳)アルバイトで観光バスの運転手をやる。クリニックの患者さん達を、バスを借りて旅行に連れて行く
1976年(29歳)
自分を追い込むために遺書を書き、20㎏のリュックを担いで塩尻から岐阜までの雪道を2日1晩歩き通す
1977年(29歳)鍼灸学校卒業 
塩川カイロプラクテックスクール1期生として学ぶ。人相学を学ぶ。
1977年(30歳)治療家に対し、カイロプラクテックの指導をスタートする
1978年(30歳)自分への挑戦。郡山から何処までどのくらいの時間で歩けるか。会津若松駅までノンストップで歩き通す
カイロプラクテックの器具(ガンステッドニーチェスト、サービカルチェアー)の制作・販売を行う
初めての祖国訪問
1978年(31歳)「姪は病気ではない、彼女に必要なのは治療ではなく安心して生きていける空間(コミュニティ)を創ること」だと気づく
1979年(31歳)塩川スクールの同期生がアメリカでアプライド・キネシオロジーを学び、紹介セミナーを開催。「筋肉がその人の情報を教えてくれる」ということに着目、独自の検査法「筋肉反射検査法(後の読脳法)」を開発するきっかけを得る
1979年(32歳)東京で医療者対象のセミナーをスタート
1981年(33歳)治療器具の開発のために金融公庫で1200万円借金し、数カ月で使い果たす
株式会社ゲンダイメディカル(現コスミックウィズダム)設立
1981年(34歳)事務所を渋谷に移転、医師・歯科医師・治療家対象セミナーをスタートする
1982年(35歳)月間「人物」で細川隆一郎氏と対談
韓国治療界の要請で、3回訪韓し、指導を行なう
1984年(36歳)「臨床キネシオロジー学会」設立
医療者対象全国セミナースタート。東京、大阪、名古屋を中心に全国8ヶ所で開催
1985年(37歳)CK学会(後のCKカインド)設立 
医療の世界でさまざまな難病の患者さんと接し、人の役に立つには人を知らなくてはならないと感じ、一般の人を対象にした「一般セミナー」の全国開催をスタート。赤ちゃん、幼児から小中高生、社会人、終末期の人まで、老若男女、さまざまなテーマでセミナー、講演、合宿を行なう。
企業や地方自治体、自己啓発グループ、幼児教室等の要請で講演やセミナーも開催する

赤ちゃん・幼児のお母さんのための「親と子の会」スタート。
小・中・高校生のための「未来塾」を元教師と協力して開催
1985年(38歳)目黒区学芸大学に本部を移転。自分らしく納得できる人生を求める「空間塾生」達と共同生活を送る
1986年(38歳)健康管理技術養成学院(後のCK学院スクール)開校
1987年(40歳)呼吸法で自分を追い込み、『元』との一体を体験
1988年(40歳)
駒沢大学駅伝部にメンタルトレーナーとして召喚され、指導を行う

日本テレビ「木曜スペシャル」「気の世界大会」出演
1988年(41歳)健康情報誌「FIND」刊行
東京医科歯科大学の助教授の依頼により、付属病院における臨床をスタート
1989年(41歳)長崎の老人ホームでボランティア開始。老人の生き方、考え方を実践的に学ぶ
1989年(42歳)
日本テレビ「たけしのスーパージョッキー」出演
1992年(44歳)40歳で『元』との一体を果たし、「自分の存在する意味を掴んだ。後は死ぬだけ」と考えるようになり、死に場所を求めて大分県の国東半島に引っ越す
1992年(45歳)大分で「第2の人生が始まっている」と気づく。生き急いだ第1の人生でやれなかったことをやろうと考える
伊豆河津でログハウス作り、北海道ニセコでカヌー作り
1993年(46歳)「親と子の会」に参加していたNさんの「私は女の幸せを持っていない。私の女の幸せに協力して欲しい」という懇願に応え、自分のことが終わり、次は他人のために生きるという人生が始まる
伊豆でパラグライダー中、突風による落下事故に遭い、腰椎圧迫骨折
1994年(47歳)「親と子の会」に参加していたお母さん数人が集まり、女の自立のための実践の場としてサロン「ファインドレイ」を開く。彼女達への協力として「女の幸せ」合宿や個人合宿をスタート
50歳までの約3年間、Nさんと共に第2の放浪の旅に出る。沖縄、石垣島から北海道まで、各地に移り住みながら、Nさんの女の幸せに協力する。
移り住んだ各地で「女の合宿」を数カ月おきに開催。
北海道の富良野で、農家の別宅を借りて農業に携わる
1997年(50歳)東京に戻り、LHCスクールを開校のため、赤坂のビルに入居。不動産屋に騙され、転売物件だったため追い出しに合い、抗議するとやくざに脅かされる。強制執行当日まで抵抗するが、直前で移転する
環境ホルモンに関する講演会企画。チラシ配布
キャラクターに変装してチラシ配布を行なう「有名人広告社」を作る
1998年(51歳)港区芝大門に移転し、LHCスクールを開校。治療室もする予定だったが、大家の妨害に合い、やくざに脅され、警察でも「殺されるよ」と注意を受け、移転を余儀なくされ移転
1999年(52歳)六本木で研究所兼治療院「医美」を開設。『重力バランス軸』『支持骨』『生命エネルギー』『重心の浮き・沈み』等のCWメソッドの研究開発をスタート
2002年(55歳)「伊東聖鎬HP」「ヒューマンエネルギー研究所」「CWコミュニティ構想」のWebサイトを公開し、「人の役に立つ」ための活動準備を始める
活動に協力してくれる人材(ライター・企画者・Web製作者)を募集。100名以上の応募があった。その後も積極的に人材募集のための活動を行なうが、ビジネスで考える人がほとんどで趣旨が伝わらなかった
2003年(56歳)さまざまなテーマで悩んでいる人へ情報を発信しようとメールマガジン(66種類)の配信を始める
2003年(56歳)真美(妻、当時30歳)がインターネットで「医美」を知り、治療に訪れる。
2004年(56歳)真美は「伊東聖鎬HP」「コミュニティ構想」に共感し、2回目の来院時に弟子入りを申し出る。勤務していた㈱ソニーを退社し、活動を共にするようになる
2005年(57歳)読脳ストーンの研究をスタート。研究会を立ち上げる。
医師、歯科医師対象セミナーを再び企画し、真美の協力を得て、「その人療法」解説書を作成。約1.5億円をかけてDMを行う
医師、歯科医師、医療者向けの「その人療法」セミナーをスタート。東京、大阪、福岡、仙台で12年間開催。
2006年(59歳)インプラントの手術で医療過誤に遭う
日本有数のキャンピングカービルダーにオーダーメイドのキャンピングカーを依頼。頭金1000万円を支払うも、途中でビルダーが頓挫し外国へ逃亡してしまった
医師、歯科医師、医療者向けの「その人療法」合宿スタート
2007年(60歳)受講者の歯科医師達に協力の元、インプラント事故を訴訟する。最終的に相手が非を認め、示談になる
2008年(61歳)浮き・沈みサポート(シール、ロケット)の開発をスタート
2009年(61歳)歯科医師対象の保険診療脱退プロジェクト「フリーマン」発足
歯科医師対象「歯科分科会スタート」。噛み合わせ、摂食嚥下、歯周病、食い縛り、顎関節症、無呼吸症候群、義歯等のCWメソッドによる研究を行う
2010年(63歳)40年間活動に協力してきたスタッフNさんが認知症になり、スタッフと共に介護を行う
2011年(63歳)東日本大震災でフリーマンプロジェクトに参加していた気仙沼の歯科医師が亡くなる
NPO法人「自分文化―安住村」内閣府へ設立申請
2011年(64歳)山梨県河口湖町へ移転。コミュニティ創造の準備のスタートを切る
2012年(65歳)自分研究ワークショップをスタート。全国各地を巡り開催
2013年(65歳)医療難民をなくすネットワークグループを歯科医師と共に設立。
「歯原性口腔疾患」に対する取り組みとして、全国の柔整・治療家へ広報
削らない 抜かない 歯・口腔疾患への治療をめざすネットワークグループを歯科医師と共に設立。全国の歯科医院へ広報
2015年(68歳)読脳をさまざまな業種で生かす「スペシャルセラピー」を研究、広報を行う
山形の美容院を皮切りに、全国の理・美容院へ広報し、東京、大阪、京都、神戸、千葉の美容院で「読脳ヘアカットセラピー」紹介を行なう。美容組合へ挨拶状を送る
静岡のパン屋で読脳パンセラピーの研究を行なう。全国のパン屋へ広報
福山のラーメン店で「読脳ラーメンセラピー」の体験会を行なう
2016年(69歳)海外セミナースタート。ブラジル・サンパウロにて医療者・大学教授等250名が参加する
東京ビックサイト、インテックス大阪の展示会で読脳ヘアカットセラピーの出展を3年に渡り、計7回開催

サンパウロ・リオデジャネイロ・クリチバにて海外セミナー開催 600名参加
2017年(69歳)
幕張メッセのイベント総合EXPO地方創生ゾーンで「読脳アテンダント」出展
2017年(70歳)
読脳アカデミー・CWインターナショナルスクール開校

東京ビックサイトのカフェ喫茶ショーで「読脳カフェセラピー」の紹介を2年続けて行なう

サンパウロセミナー第3回(350名)・メキシコシティセミナー第1回(300名)開催
2018年(71歳)
アロマ&ハーブEXPOで「読脳ハーブセラピー」出展
2020年(72歳)
新型コロナウィルスのソーシャルディスタンスにより3か月間スクール休校。4月、オンライン受講をスタート
2020年(73歳)老若男女のさまざまなテーマで「読脳」を指導する企画・準備をスタート

山梨県鳴沢村富士桜高原にCWビレッジ開設
2025年(78歳)読脳フリースクール開校
1947年(昭和22年)・0歳
1949年(昭和24年)・2歳〈2歳〉この頃から痔瘻になる。
1950年(昭和25年)〈3歳〉京都の南に越し、長屋住まいになる。
1952年(昭和27年)〈5歳〉幼稚園入園
机の上を走り回って骨折。幼稚園へ行かなくなる。
近所のパン屋のきぬちゃんに憧れる。
1954年(昭和29年)〈7歳〉小学校入学、1~2年の担任にいじめられる。
1955年(昭和30年)〈8歳〉性行為を体験
1956年(昭和31年)〈9歳〉この頃から近所の家の前の道を掃いたり、水を撒いたり、朝食の準備をするようになる。
新井玉子、佐野和子を好きになる。ラブレターを書く。
1957年(昭和32年)〈10歳〉柳川、高嶋という子分が出来る。
琵琶湖でおぼれる。
野球を始める。
バーベルをもつようになる。
右大腿を骨折。
柔道を始める。
1958年(昭和33年)〈11歳〉名前が「聖哲」から「聖鎬」に変わる。
1959年(昭和34年)金閣寺の側に引っ越す。
牛乳配達、集金を始める。16歳まで4年間続ける。
叔父が密航で捕まり、新聞に載る。
いじめが始まる。
〈12歳〉前の学校の仲間を呼んで野球大会をする。その後暴れる。
体育のサッカーをやっている時、いじめで足を折る。
1960年(昭和35年)マラソン大会、心臓破りの坂(蓮華谷)を任せられる。
課外授業で御所に行ったときブランコの座台で殴られ、歯を2本折る。
琵琶湖入水自殺未遂
韓国中学入学
ホームルームでいじめにあった話をする。
校長や他の先生も聞きに来る。
陸上部、体操部をつくる。
〈13歳〉友人の相談役となる。
卓球部、バレー部入部
父に30キロのバーベルを買ってもらい、トレーニングを始める。
初恋をする。
いじめた相手に仕返しして回る。
12月10日より日記を書き始める。
1961年(昭和36年)一気に自意識が大人になる。
有志を集めて奈良若草山へハイキング
〈14歳〉倉庫で、戦時中の日本が韓国人に行なった残虐な行為の写真や資料を偶然に見つける。
祖国意識が一気に高まる。
1962年(昭和37年)足の骨折の後遺症で柔道でオリンピックを目指すのを諦める。
〈15歳〉同級生10人位と小豆島へ旅行。
1963年(昭和38年)高校入試失敗
伊豆箱根富士国立公園へ、友人の京浩と旅行
不本意な学校(仏教系)に入学。進学クラスに入る。
韓国民団の京都支部に韓国語を学びに行っていた時に誘われてデモに参加。
柔道で5人抜きする。
〈16歳〉創氏改名を強制される。
盲腸の手術後、学校に行かなくなる。
ケネディ大統領暗殺の次の日、上京。志木にある叔父の家へ居候。
成増の柔道道場に通う。
力道山の死がショックで受験勉強が出来なくなる。
1964年(昭和39年)叔父の家の引っ越しにより、東村山へ。
フットボールをしたくて日大付属校を受験するが、国籍差別で1次、2次試験とも面接がなかった。 
裏口入学のため、ブローカーに20万円だまし取られる。
明大中野の定時制に合格。
全日制に変われると、ブローカーに20万円だまし取られる。
1年の時、政治運動に参加。
朝は牛乳配達、昼は土方、夜は学校の生活が1年続く。
〈17歳〉東中野上高田にある小池おばあさんの下宿へ。
両親が来て、定時制に通っていることがばれる。
京都の友達を家出させて一緒に住む。
UFO研究会で行った金沢の帰り、短大生と知り合う。
小池おばあさんが友達を気に入らず、出ていってほしいと言うので、黒田荘へ友達と下宿。
文化祭にて演劇で活躍する。
外人登録を持っていなくて警察に捕まる。
1965年(昭和40年)全日制2年生に編入。
最初はガリ勉のグループで真面目に勉強する。
〈18歳〉姉の知り合いの青年同盟の人を紹介され誘われて、『朴大統領の軍事政権反対』のデモに参加。
京都へキセルして帰る。              
金沢の友人と琵琶湖でボートに乗り遭難。
その友人が密入国で捕まる。   
隣の部屋のお姉さんのところにヤクザが何人も来た。
怖くて黒田荘を出、中野荘へ。
ガリ勉のグループから悪ガキのグループへ。
「我が人生波乱の道一筋決心堅し」という張り紙を貼る。
両親がそれを見て怒る。
大型二輪免許を取る。
強制送還される友人を京都駅で見送る。
1966年(昭和41年)試験の答案用紙に人生問題を書く。
2人の先生は満点をくれる。
教室や職員室で正座を始める。
家族が東京に来て、中野荘を出、西武柳沢で一緒に暮らす。
全日制から夜間に戻る時、親ともめて母親が大事にしているタンスをつぶす。         
定時制4年
ホットドック屋を始める。
〈19歳〉実家が西武柳沢で衣料品店(スマイル)を開く。
青年同盟の大会で熱川に行く。
上野でバイクを買う。
バイクで東北の旅へ出る。
深夜、三鷹のレストラン「メキシコ」で働く。
並行して、とび職、牛乳配達も続ける。
「メキシコ」の従業員、山下民子(吉永小百合似)と出会う。
“寝ない”の限界に挑戦。13日目に倒れ、2日間寝て翌日再び挑戦し、13日目で倒れる。
”食べない”の限界にも挑戦し、17日目に倒れる。
「メキシコ」の元従業員、松本友子(山本陽子似))と出会う。
オーストラリア、カナダ大使館に行く。
1967年(昭和42年)「メキシコ」を辞める。
2tトラックの運転手を始め、並行して土方とび職を2か月間続ける。
高校卒業
「30歳までに100の地域で100の仕事」をスタートする。
京都へ。
京都でパチンコ釘師の見習いをする。